スーパーじいさんの話2
100歳近くまで生きたじいさんの話。
じいさんの話1はこちら
じいさんは90歳を過ぎたころ、一度死にかけている。
半世紀通っていた床屋で倒れたのだ。
ほぼ無くなっている毛と肌のお手入れのために、その日もママチャリで数十分の馴染みの床屋へ行っていたじいさん。
突然心臓を抑えて倒れたらしい。
救急隊から息子(私の叔父)へ「AEDを使います」との連絡。
通常90歳を超えた超高齢者にはなかなか使わないらしいが、なんとうちのじいさん、一度では回復せず3度も使ったようだ。
「3回も使ってピンピンしているのが凄いです!ほとんどの場合体が耐えられないんです」
と後々医師に言われたのだが…。
「いやいや、それ言っていいやつなのか?」との疑問が湧かなかったわけではないが、ノーダメージでこの世に舞い戻ってきたじいさんへの疑問のほうが上回った。
そういえばこの騒動の数年前、健康診断で骨年齢が40代と出たじいさんは「あなたの体を研究させてほしい」と言われていたことを思い出した。
戦友も妻ももう誰もいないこの世に何の未練もなく、「いつ死んでもいいのになかなか死ねんもんや」と言っていたじいさん。
「憎まれっ子世に憚るけんね」と自分で突っこんでにやりと笑っていたのだった。
掃除機の話
面倒くさがりな私は当然掃除だって好きではない。
蛇口の隙間掃除やサビ取りなど細かい掃除は嫌いではないのだが、片付けと掃除機をかけるのが面倒くさい。特に掃除機がけは本当に疲れる。
誰か代わりにやってはくれないかと常々思っていた私なので、ロボット掃除機の登場は心底喜ばしいことだった。
「私のような人のための神アイテム!」と思っていたところに友人が購入したとの一報が入ってきた。
これは見に行かねばなるまいと、意気込んで友人宅へ行ったのだが私はそこで打ちのめされるのだった。
圧倒的な床面積の差。
平米の話ではなく、目で見えている床面積があまりにも我が家と違うのだ。
掃除機ロボットは「床に散乱している物をどけてくれるロボット」なわけではないという当然のことが、私の頭の中からごっそり抜け落ちていたわけだ。
抜け落ちるのは毛だけにしてほしい。
「ダイニングの椅子だけはテーブルの上に上げておいてるよ」という友人のアドバイスに「そのイスを上げるスペースがそもそもテーブルに残されていない」とは最後まで言えず、自分の間抜けさに肩を落として帰宅したのだった。
料理の話
食事はとりあえず栄養が取れればいいと思っている私は当然料理が得意ではない。
不味いということはないだろうが「わっ、美味しーい☆」という評価をいただけることもないだろう。
若い頃は美味しいといわれるお店にもそれなりに行っていた。
フルコースいただくレストランもお洒落なアジア料理のお店も泡盛が最高に美味しいバーもかき揚げが絶品の蕎麦屋も何十年と続く秘伝のタレの焼き鳥屋も、毎週どこかしらに足を運んでいた。
そんな私でも家で作る料理というとこんなものなのだ。
確かに美味しくて見た目にも美しい料理は心を満たす。
満たすのだけど、自分で作っているとどうにもそこに重きを置けないのだ。
時間との勝負であったり睡魔との闘いであったり、、その先の「満たされる時間」にまで考えが及ばない。
最終的には「汁物に全部ぶち込んでおけば何とかなる」にいきついた。
その後某有名料理人さんがそれでいいと肯定しくれる本(解釈は人それぞれ)を出版し話題となっていたので、「間違っちゃいないさ」と、ただの面倒くさがりな自分を更に棚に上げるのであった。
スーパーじいさんの話1
私の祖父は100歳近くまで生きた大往生じいさんだった。
戦争の最前線で戦い腹部に銃弾が入ったまま生き抜いたじいさん。
このじいさん、数々の面白い逸話を残して逝ったので少しずづ紹介していこうと思う。
じいさんは士族の家に生まれた末っ子である。
母親は家事や育児なんてしないお嬢様で乳母に育てられた。
タップダンス、尺八、三味線、ギター、歌、柔道、居合い、剣道、合気道など、様々なものがプロ級の腕前。
尺八は当時NHKラジオで披露しており、武道にいたっては免許皆伝。
戦後、体の小さな日本人がアメリカ兵を皆の前で投げ飛ばしたと話題になり、米兵にとても気に入られていたとか。
そのため米兵から珍しい異国のお菓子をよくもらっていたらしい。
私が小さいころ、小学生の兄や従兄弟たちと4人がかりで勝負を挑むも、寝転がったじいさんの足だけで全員やられた。
80歳過ぎてなおママチャリで山越えして他県まで行ってしまうほどに異常な体の持ち主だった。
とにかく強いじいさんは、山越えの理由が「競艇に行くから」という馬鹿者でもあった。
続く